「清め塩」は止めましょう! |
葬儀を執り行っていて“悲しいな”と感じるのは「清め塩」の習慣が直らないことです。香典の返礼品に付いていたり、斎場の出入り口に塩が盛ってあったり・・・。
浄土真宗では「清め塩」の風習を否定します。
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塩に関する面白い話 |
塩は動物の体にとって大切な、必要不可欠なものです。人体に占める塩分の割合は1%近くあるようです。調味料として料理には必ず使用し、特に肉や野菜の保存や腐敗を防ぐ手段として欠かせないものです。冷蔵庫が普及する以前の一昔前までは保存食といえば塩漬けや干物に限られていました。
この塩の防腐効果が昔の葬儀風習にも取り入れられました。ドライアイスもない昔は、すぐに死体が腐って見苦しい姿に変化し、すさまじい悪臭を放ちます。それで、死体を塩づけにしたら腐らないのでは、ということから死者に塩をまいていたのが、いつか参列者にまくようなことになったのです。
本来は死体にふりかけるべき塩を、反対に参列者にふりかけているというのが面白いところです。
これはイザナギ・イザナミの神話に代表されるように古来の日本神話から派生したもので、死者を“ケガレ”とみて、塩はそのケガレを清める力があるとして用いられているようです。
しかし、そうであるならば、いま涙ながらに見送ってきた大切な故人はケガレた存在の人であり、忌み嫌ったり追い出さなければならない存在なのでしょうか。これこそ亡くなった人に対して大変失礼なことをしている訳です。
浄土真宗では、死者は穢れた者でも汚い者でもありません。逆に汚い煩悩に穢されたこの世界を離れ、清浄な世界に生まれ、最高の悟りを得られた仏さまなのです。
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ある地方の会葬御礼 |
悲しいかな神道色の強い宮崎ではまだまだ「清め塩」の習慣は強く残っています。都城地区の浄土真宗の寺院では数年前より清め塩廃止の啓蒙運動が通夜・葬儀においてしっかり行われています。ここ宮崎地区においても各寺院あげての取り組みが急がれるところです。最後に、大分県の湯布院町(当時)の仏教会の「清め塩廃止」の告知文をご紹介しましょう。
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『清め塩』は廃止します
「清め塩」は左記の理由により廃止することにいたしました。各位のご理解を伏してお願い申し上げます。
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記
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「清め塩」はほとんどの葬儀で使われ習慣化されていますが、仏教の教えとは無縁であり迷信からおこなわれているものです。「清め塩」と言うからには、何かの穢れを除くという意味があるのでしょうが、仏教では決して死を穢れと受け取ることはありません。むしろ往生(清浄なる仏国土に生まれる)・成仏(真実の悟りをひらく)の極まりとして受け止め、人生の完結した姿であると示されています。
生前に父よ母よ、兄弟よ姉妹よ、友よと呼び親しんできた方を、亡くなったとたんに「穢れたもの」とあつかい、「お清め」していくことは、亡き人をかぎりなくおとしめる行為であり、悲しくも痛ましいことであります。仏教に照らすと「清め」の行為そのものは、亡き人をおとしめていくばかりでなく、私自身の生き方をもあいまいにさせる迷信であり、一切不必要であることが知らされます。
故人の遺徳を偲びつつ自己の現実を見つめ直す厳粛な儀式としての葬儀を回復しましょう。
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湯布院町仏教会
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(引用・参考文献「これからの真宗しきたり全書」日野詢誠著・「門徒もの知り帳」野々村智剣著・「お坊さん」今小路覚真著・「仏事の小箱」菅純和著) |
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