住職法話“お聴聞”ということ

「聞」と言ふは、衆生仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰ふなり。(親鸞聖人)

 浄土真宗のお寺でよく聞かれるのが「お聴聞」という言葉です。まさしく「聴く」「聞く」ということです。
 冒頭に述べた親鸞聖人のお言葉は、“「聞く」ということは、私たち(衆生)に向けられた阿弥陀如来さまの願い(仏願)の起こりとおはたらき(生起・本末)を疑いなく味わうことである”ということです。
 自分中心のものの見方しかできず、自分の願いはわがまま勝手で煩悩に塗れている私たちに、仏さま(阿弥陀如来さま)は“お前たち、そんな欲に振り回され、怒りや腹立ちばかりの人生でいいのか。自分が自分を苦しめるだけじゃないか。他人と比較をして自分と比べるから欲が出てくるんだ。他人を気にするから怒りや腹立ちが出るんだ。他人のことは気にせずに「そのまま」のお前でいいじゃないか。「そのまま」のお前でいておくれ”と願われているわけです。

「人間の願いはわがまま仏さまの願いはそのまま」
 しかし、私たちはどうしても「そのまま」ではおれないわけです。やはり他人を気にして腹が立ったり欲が出たりする。それで自分を苦しめる。それを益々仏さまは「そのままで」と悲しまれる。
だからこそ、私たちは日頃は目を背けがちな仏さまの「そのまま」の願いに向き合って、その願いを疑いなく聞かせてもらわないといけないのです。
しかし、「聞く」ということは私たちにとっては大変難しいことです。人間は五感の機能のうち、目(見る)・鼻(嗅ぐ)・口(話す)・手(触る)の機能はたやすく使えるのですが、耳(聞く)の機能を使うのが大変苦手です。また、「耳は大丈夫だ。ちゃんと聞こえている」といっても、聞いたことをきちんと理解し、それが行動となっているでしょうか。そして、いつまでも覚えているでしょうか。
自分にとって好都合のことはどれだけでも聞くし、いつまでも覚えているでしょう。しかし、たいていのことは自分にとって都合の悪いことばかりしか耳にしません。しかし、この都合の悪いことが自分にとって大事なことであることが多いのです。
子育てでも親は、子がまっとうな人間になって欲しい、健康ですくすくと成長して欲しい、と真の願いをもっているから、子に対して「勉強しなさい。遊んでばかりいるな」「しっかり食べなさい。好き嫌いはするな」と言うわけです。しかし、子はそれを言われるのを一番嫌がる。やっぱり遊びたいし、勉強したくない」「好き嫌いはしたい」。それで、ますます親の真の願いに背いているわけです。
私たちも、仏さまのそして亡き故人のお浄土からの「まっとう人間になっておくれ。そのままでいておくれ」という真実の願いを疑いなく素直に聞かせてもらわないといけません。それが「お聴聞」であり「南無阿弥陀仏」のみ教えを聞かせていただくことであります。
その為に先ず、お寺に足を運び、南無阿弥陀仏のみ教えの中身を聞かしてもらうこと。それが「聴く」という行為です。「聴く」というのは「注意して耳にとめる・耳を傾ける」という積極的な行為を意味します。寺にも行かなければ仏法を「聴く」こともありません。その「聴く」という積極的行為があってこそ次の段階の「聞く」という仏法に出逢えることになるのです。
そして「お聴聞」と「お」が付いていることに気をつけて下さい。「聴聞」とは決して自分がしようとやっているこのではなく、仏さまから「聴聞」をやらせてもらっているという受け取り方が大事です。お寺に足を運んでいるのも、法事を勤めているのも、仏さまそして亡き故人がご縁を結んでくださったものであるということです。
最後に、「お聴聞」にあたって4つの大事な心得があります。

1)「仏法には明日はなし」
 「今日は用事があるから次回にしよう」とか「まだ若いから関係ない、年が経ってから寺に参ろう」という方が多いようです。お寺は死んだ後に世話になるところではありません。今この一時をどう生きるかを問うのが仏教でありお寺です。明日とは言わず、今この時にお寺にお参りしお聴聞し、仏法に遇わしていただくことが大切です。

2)「この身一人の為の仏法」
 仏法を聞いてもそれが他人事だったら意味がありません。「ああ、それは大丈夫。自分には関係ない」「自分はいい性格だと思うし、順風万般に過ごしているから大丈夫」というような受け取り方では仏さまの「そのまま」の願いに背いていることと一緒です。阿弥陀如来さまがこの私自身に問いかけをされているんだ、という姿勢が大切です。

3)「疑いなく聞く」
「阿弥陀如来さま」とか「お浄土」とか見たこともない行ったこともない話を聞いても信じられない、という方もいらっしゃるでしょう。私たちの思考はどうしても論理的・実証的になりがちです。しかし、そういう思考が、自分が一番正しいという自分中心の考えとなり、時に自分を苦しめているのです。仏さまの「そのまま」の願いを素直に疑いなく聞かせてもらいましょう。

4)「繰り返し聞く」
「一度聞いたからこれで私は大丈夫。これで一時ちゃんと生きられる」ではいけません。所詮、聞いたことはその時は感動しても直ぐに忘れてしまうものです。あるいは、お寺で身につまされる話を受けても、家に帰ったら何かの縁で直ぐに腹が立ったり、愚痴がこぼれたり、欲が出るのが私たち人間です。仏法はそう簡単に身につくものではありません。また、聞けば聞くほど身につまされるのが仏法です。繰り返し繰り返し聴聞し、この身絶えるまで聞き続けるのが仏法(生涯聞法)です。

 安楽寺では本寺報最終面でご案内の通り毎月のように法要を開催しお聴聞の場を設けています。特に、一月後半〜二月前半は「お聴聞月間」ということで、全国でも著名かつ大変有難い先生とのご縁が続きます。是非ともこのご縁に遇っていただきたく切に願います。   
(住職筆)